わすれな草

全体として、本作の美術は**「記憶・虚構・現実」を色彩と空間で分離しながら、最終的にそれらを曖昧に溶かしていく設計**が非常に精緻に組まれている。ヒューマンドラマでありながら、視覚的にはかなりコンセプチュアルな構造を持った作品と言える。


■色彩設計:スモーキーな色=記憶の質感

全編を通して特徴的なのは、タバコをモチーフとしたようなスモーキーな色調である。

  • 赤・ピンク・青といった本来鮮やかな色にもグレーを噛ませる
  • 彩度はあるが抜けきらない“濁り”がある
  • グリーンが生活物(冷蔵庫や室内設備)に染み込んでいる

これにより画面全体が

「現在の現実」ではなく「記憶として再構築された香港」

として機能している。

特にアルツハイマーという設定を踏まえると、この色の濁りは単なる生活感ではなく、

記憶の劣化や曖昧さそのものを可視化したもの

として読むことができる。

■ロケーションと色の対比:虚構としての過去/現実としての香港

本作では大きく

  • ブラジル(物語冒頭)
  • 香港(現在)
  • 香港(偽りの過去)

という構造があり、美術・撮影ともに明確に差別化されている。

・ブラジルパート

  • オレンジ寄りの暖色ライティング(夕暮れに近い)
  • 望遠気味の圧縮された画
  • ロマンチックでヒロイックな構図

・香港パート

  • グレートーン主体の街並み
  • 下町的で密度の高い生活空間
  • 夜になるとネオンが強く浮かび上がる

現実の湿度と雑多さを持つ現在

特に印象的なのが、外国から香港への切り替えにおいて

  • きらびやかな高層ビル群
  • 大きく映されるマクドナルドの看板

などを強調する演出で、

個人的な記憶がグローバル化した都市に上書きされる違和感

を強く印象付けている。

■空間設計:下町リアリズムと逸脱するロマン

物語の主な舞台となるのは、下町的な香港の生活圏であり、

  • くすんだグリーンを基調とした室内
  • 生活感の強い雑多な小道具
  • グレートーンの外観

などにより、強いリアリティが構築されている。

象徴的なのが、主人公たちの住むアパートで、

  • クリーニング屋を間借りした空間
  • ビニールに覆われた大量の衣類

といった要素によって

貧困と仮住まい的な不安定さ

が視覚的に明確化されている。

■ロマンの挿入:ピアノのシーン

そのリアリズムの中で異質に機能するのが、ピアノのシーンである。

  • 雨の中でピアノに身を寄せるという状況
  • 黒ではなく木目調のピアノによる空間への馴染み
  • 二人でピアノを運ぶという特異なアクション

これらは

現実の中に一瞬だけ現れる“映画的なロマン”

として機能し、作品全体のトーンに揺らぎを与えている。


■キャラクター造形:服装による虚構と現実の対比

キャラクターの衣装設計も、美術コンセプトと強く連動している。

・エリック・ツァンのキャラクター

  • 派手な柄物の衣装
  • 誇張された自己演出

虚構の過去を語る“演じる人物”

・ニコラス・ツェーのキャラクター

  • ワントーンのTシャツ+ジーンズ
  • 身体にフィットしたシンプルな服装

現在を生きる“実在感のある人物”

さらに、

  • アメリカ帰りのチンピラ
  • 派手な服装で虚勢を張る人物

も同様に

“見せかけのアイデンティティ”を持つ存在

として配置されており、

本作は全体として

「人は皆どこかで役を演じている」

というテーマを視覚的にも補強している。

■演出と美術の連動:仮面と劇画調の過去

エリック・ツァンのキャラクターにおける

  • 仮面の設定
  • 劇画調でヒロイックに描かれる過去回想

は、

語られる過去が“事実ではない可能性”

を示唆する重要な演出である。

現実パートのくすんだ質感と対照的に、

→ 過去は鮮やかで誇張されている

ため、

美術そのものが“嘘を見抜く手がかり”として機能している。

■総括

本作の美術は、

  • スモーキーな色彩=記憶
  • グレートーンの街=現実
  • 暖色で誇張された過去=虚構
  • ロマンチックな逸脱=映画的瞬間

という明確なレイヤー構造を持ちながら、それらを完全には分離せず、常に曖昧な境界に置き続けることで、

記憶と現実が混濁していく感覚そのものを体験させる設計

になっている。

アルツハイマーというテーマを、説明ではなく

色・空間・衣装・質感といった美術要素で語り切っている点において、非常に完成度の高いビジュアル設計の作品である。