『北京オペラ・ブルース』美術レビュー
監督:ツイ・ハーク
■ シチュエーションの多さと“ハリウッド的”スケール感
本作は物語の転換(場面転換)が非常に多く、しかもその一つ一つが丁寧に設計されている。
屋敷、劇場、街路、屋根上、監禁部屋……と、舞台は次々に移ろう。
明らかに潤沢な予算を感じさせるセット構築。
西洋建築の内部空間も、単なる背景ではなく、奥行き・階層・装飾密度を持つ空間として作られている。
この「場面の豊富さ」と「空間の作り込み」は、前作である
**上海ブルース**と比較すると圧倒的である。
『上海ブルース』が演劇的空間の延長線上にあるとすれば、本作はより映画的、よりスペクタクル志向。
スケール感の拡張は、明らかにハリウッド的映画作法を意識したものと言える。
ツイ・ハークが「香港的娯楽」を保ちながら、映画産業としての拡張を志向している姿勢が見える。
■ 京劇舞台から屋根へ ― ワイヤーアクションの進化
物語終盤、京劇の舞台上で展開されるアクションは、
突如として屋根上へと空間を拡張する。
この“空間の飛躍”こそ本作の快楽。
布の色彩が風に翻り、
直線的な屋根のラインを滑空する身体、
ワイヤーを駆使した跳躍。
舞台空間の装飾的平面から、屋外の立体的空間へ。
そのダイナミックな変化は、後のツイ・ハーク作品におけるワイヤー演出の原型を思わせる。
演出の誇張、身体の飛翔、色彩の躍動。
ここにはすでに“武侠映画的”身体表現の萌芽がある。
■ 過剰さと残酷さ ― トーンの断絶
ツイ・ハークらしさが最も顕著に現れるのは、
物語終盤の拷問シーンだ。
ブリジット・リン演じるヒロインが拷問を受ける場面。
- 傷口に砂を擦り込む
- 食塩水を浴びせる
- 傷を指でえぐる
- 爪の間に針を刺そうとする
それまでの軽快でコミカルなタッチからすると、
この描写は明らかに強度が高い。
観客は一瞬、作品の明るさとの落差に驚かされる。
しかしこれは、ツイ・ハークの特徴でもある。
物語を単なる軽い娯楽にしない。
コメディ調のテンポの中にも、暴力のリアリティを挿入する。
この断絶があるからこそ、
作品は単なる“祝祭的活劇”に終わらない。
■ 軽やかさと死の多さ
全体のトーンは華やかで、色彩も軽い。
しかし実際にはかなり多くの人間が撃ち殺される。
銃撃の数も多く、死は決して軽く扱われていない。
むしろ香港映画特有の“過剰”なエネルギーとして提示される。
明るい色彩。
軽快な音楽。
しかし大量の死。
このアンバランスさこそが80年代香港映画の特異性であり、
本作もその流れの中にある。
■ 総合的に見ると
『北京オペラ・ブルース』は、
- ハリウッド的スケール感
- 豪華セットによる空間拡張
- ワイヤーアクションの実験
- コメディと残酷描写の断絶
- 色彩の祝祭性と死の過剰
を併せ持つ、極めて野心的な作品である。
軽やかでポップな女性活劇の顔をしながら、
その内側には暴力と革命の現実がある。
この“軽さと重さの同居”こそ、
ツイ・ハークの映画の本質と言えるだろう。
